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神様とともに乗り越える育児うつ

澤田郁子

 

 

私は今39歳です。キリスト教との出会いは、横浜のミッションスクールに入学した13歳のときでしたから、もう26年も前になります。

この26年間を振り返ってみると、いくつかの人生のポイントがあったなと思います。神様の存在をいつもなんとなくそばに感じながら、それらのポイントでときに自分の力で立つこともできないくらいうちのめされ、神様が私を背負ってくださったことを思い出します。


今から4年前、私たち夫婦は初めての子どもを授かりました。流産の後授かった新しい生命でしたが、出産前の重いつわり、出産後の昼夜を問わない育児のハードさに、私は疲れきっていました。ようやく少し息がつけるようになったのは娘が一歳の誕生日を迎えるころでした。

そんなある日、二人目の妊娠がわかりました。育児に自信が持てず、落ち込んでいた私に、そのニュースは追い討ちをかけました。目の前が真っ暗になり、「僕もできる限り協力するから」という夫の言葉もほとんど耳に入らないくらいでした。また、恵まれた新しい生命を喜ぶことができない自分に、「やっぱり私はだめなんだ」と思いました。

「やっぱり」というのは、さかのぼって14歳のときに知ったある事実がきっかけで、私は「自分は人から愛される資格がない人間だ」と思っていたからです。


14歳のとき、私は母の箪笥から偶然自分の母子手帳を見つけました。そこには、母の旧姓と私の名前が記されていました。私は不思議に思いましたが、母にすぐ尋ねることはせず、戸籍のある千代田区役所に出かけ、戸籍謄本をとりました。そこには、「準正嫡出子」という聞きなれない単語が並んでいました。誰にも相談することができず、ある日思い切って母に尋ねると、母は次のように説明しました。父と母は長く一緒に暮らしていたけれど、私がお腹にいるとわかったときも父は入籍の意思がなかったこと。父は複雑な家庭環境で育ち、家庭をつくることを避けていたこと。妊娠を告げたとき母は父から中絶するように言われたこと。母は「ひとりでも育てる、絶対に生む」と父に伝えたこと。実際に生まれた私を父は本当によく世話をし可愛がったこと。私が生まれてすぐに父の米国転勤が決まり、私たちは名実ともに家族となったこと・・・しかし、私の頭に残ったのは「子どもが生まれたら、生ゴミの袋に入れて捨ててやる」という、穏やかで優しい父の口から出たとはにわかに信じがたいせりふでした。

父が私にかけてくれた数々の愛情―病弱だった私の入退院のために会社を休んだり、海外出張のときに必ず国際電話をかけてくれたり、家にいるときに宿題をみてくれたり・・・それらを思えば、父が私を掛け値なしに愛してくれていることは疑いようもないはずなのに、当時の私は、父に養われている自分が汚らしく思え、学校の購買部で買ったパンを食べては吐くということを繰り返しました。


父が私の誕生を素直に喜べなかったように、私は下の娘が生まれることをなかなか受け入れられませんでした。夫は協力的でしたがとても忙しく、毎週決まった曜日に休みがあるわけでもなく、育児を分担できる見通しは立ちませんでしたし、実家の母はすでになく、当時の私には精神的なよりどころはありませんでした。生まれた下の娘は、心臓に穴が開いており、自然に閉じるまで生後半年小児科に通わなければなりませんでした。上の娘は突然の妹の出現に戸惑い、蕁麻疹や夜泣きがひどくなり、私は出産の疲れと慢性的な睡眠不足から、少しずつおかしくなっていきました。あるとき、夫が出張で3〜4日不在の間、私は本当の意味で誰とも話をしなかったことがあります。電話もメールも、宅配便もセールスも来ませんでした。日中上の娘の手が汚いことが気になり、何度も洗面台で洗ってやりました。数えると20回近かったと思いますが、なぜあれほど手の汚れが気になったのか自分ではわかりませんでした。また、夜明けに下の娘の授乳後にフラフラとベランダのほうへ行き、まだ暗い外を眺めていると、窓枠の汚れが気になり始めました。まだ春浅い季節の午前3時に、窓を全開にして掃除を始めました。上の娘のいたずらに苛立ち、怒鳴りつけ、私の剣幕に泣き叫ぶ娘の頭に枕をたたきつけたこともあります。睡眠を削って作った食事を床にこぼされ、こぼしたものを口へ押し込んだこともあります。私のゆがんだ育ちが、子どもたちを傷つけ、私たち家族をバラバラにするに違いないと思いました。また、少ない休日を山岳関係の組織の役員としてボランティア仕事にあてる夫への不満も、子どもたちにぶつけました。夫は毎朝「今日も全員が無事に生きられますように」と祈りながら出勤していたと言います。たまに挨拶する同じ階の60代の独身女性が、見かねて上の娘を毎日のように散歩に連れ出してくれました。それは三ヶ月ほど続きました。後にその方から聞いた話では、「事故があったらどうする、訴訟にでもなったら大変だからそんな人助けは即刻止めなさい」と周囲から強く止められたそうです。還暦を過ぎ、育児の経験もなく、2歳になったばかりのやんちゃ盛りの娘を毎日散歩に連れて行くのはどんなにしんどいことだったでしょう。一方で、心臓の悪い下の娘をかばいながら上の娘を外で遊ばすことのできない私は、どれほど助かったでしょうか。また、何人かの独身の友人はお惣菜を持って訪ねてくれ、何かを諭すわけでもなく、洗濯物をたたんだり、食器を洗ったり、家事をして帰っていきました。

夜明けに窓枠の掃除を始めた日から神経科で「育児うつ」と診断されるまでに、約半年かかりました。投薬とカウンセリングの治療が始まり、治療のために子どもたちは週3日保育施設に預けました。身軽になった時間に、出産前に勤めていた国際協力NGOで短期アルバイトをしたり、新聞や本を読んだり、当時の私は社会とのつながりを求めていたように思います。そして、治療開始後3ヶ月ほど経った年末に、私たち家族は都内から登戸へ引っ越しました。主治医からOKが出ていたものの、治療半ばで負担の大きい引っ越しを実行するのは、私たち家族にとって賭けに近いものでした。やっと落ち着いてきたのに、引っ越しで悪化したらどうしよう。私は不安でいっぱいでした。


2006年のクリスマスが終わったすぐのころです。私は、郵便局から自宅に戻る途中に通りかかった家のガラスに、朝日にきらめく大きな白い十字架を見つけました。それが、こちらの十字架です。私はアポイントもなしに、ベルを鳴らしていました。迎えてくれたのは、牧師婦人のクリスティーンでした。彼女の包み込むような優しさと、歩いてきた道のりの厳しさに、涙が出ました。そして私はそのとき「よくここまで来ましたね」と言われたのです。それは、主イエスキリストの声として私の中に響きました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)なんとストレートで力強いみ言葉でしょうか。私は疲れていました。私は休みたかったのです。我が身の罪深さに震えながら、その罪がイエスキリストの血潮によってすでに贖われていることにも気づかず、祈ることも、聖書を開くこともなく、もがきあがいていた日々を思い返すとなんと愚かだったのかと思います。すべてのわざには時があり、すべてが神様のご計画のうちだったのだと知らされました。

エクレシアのセルのひとつ、グレイスで子育て中のクリスチャンのみなさんとの交わりを持ち、育児に対する考え方も少しずつ変わっていきました。「神様からの預かりもの」として、尊厳と愛情をもって子どもたちに接するスタンスは、他のお母さん友だちからは決して得られない態度でした。


私の育児うつは、昨年の年明けに再就職を果たし、仕事と家庭の両立という中で時として頭をもたげることがありましたが、前のように豹変する自分自身を恐れる気持ちは徐々になくなっていきました。教会に通い始めて2年経った今では、我を忘れて怒るということはなくなりました。私が子どもたちにした虐待の数々は決して消えることのない事実です。ただ、イエスキリストに従って、歩むのみです。何事でも神様のみこころにかなう願いをするならば、神様はその願いを聞いてくださいます。その確信を持って、日々を過ごして生きたいと思います。

 

 

以上