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「Gospel Music に導かれて」             

 三宮すみれ

 

 

私はゴスペル音楽を通じて、神様と出会ったので、私と音楽の関わりを中心に話したいと思います。 小さい頃より、習い事でピアノを弾いていましたが、大学時代よりサークルで音楽を本格的に始めました。卒業後もOLやバイトをしながら、仲間とともにライブハウスなどで音楽活動を続けていました。26歳で結婚して引っ越してきた川崎市多摩区で2000年1月に募集された3ヶ月のゴスペル講座、ピアノの勉強にと思い行ってみました。その講座の講師がメグさんでした。リハーサル用のピアニストを連れてきていなかったので、なぜか私がリハーサルからピアノを弾くことになりました。その講座の発表会のリハーサルで私はピアノコウジさんと出会いました。私はコウジさんの弾くピアノに、こんな風にピアノって弾けるんだ!こんなピアノを弾きたい!と本当に驚き、夢中になりました。そして、その講座の後、市民サークルとして立ち上がった、多摩リバーサイドゴスペルクワイアでピアノを弾くことになりました。ディレクターはメグさん。とても幸運なことに、その頃スタジオミュージシャンとしてとても忙しかったコウジさんも1ヶ月に1度、指導に来てくれることとなり、私はコウジさんとメグさんにまさに背中でゴスペルを教えてもらいました。最初は本当に夢中でゴスペルに向かっていた私ですが、2年目くらい水戸ゴスペルを始めとして、教会のクアイアやコンサートを手伝うようになり、ゴスペルを深く知っていくにつれて、信仰のこと音楽のことで悩むことが多くなっていきました。実は、私の中にはゴスペルと出会う前からずっと人生を導いてくれる大きな存在がありました。そして、ゴスペルを弾く中で神様の存在をもっと感じていました。しかし、それがイエス様だと限定すること、されることがとても嫌だし、出来なかった。私の欠点もまるごと愛してくれている旦那の憲ちゃんと違う道を歩いていくこと、私にはとてもそれは出来ないことでした。

そんなころ、タマリバでも信仰のことで揉め事が多くなっていきました。たくさん悩み、そんな中与えられた答えが、「多摩リバもゴスペルも辞めよう」ということでした。私がやめることがきっかけとなり、3周年の自主コンサートを最後に多摩リバは終了することになりました。その最後のコンサートのことです。コンサートの前、他のメンバーとは逆サイドの袖に一人でスタンバイしていました。その時ふと、水戸ゴスペルを一緒に教えに行っていた、健太君とナンちゃんが「イエス様を通してでないと、私たち人間神様に祈りを届けることが出来ない」と教えてくれた言葉を思い出しました。そして、メグさんの私たちは皆、ただただ神様に私達の身体を使っていただくのだという言葉も。その時初めて、「神様、あなたが私の手を用いて弾いてください。イエス様のお名前によってお祈りいたします」と祈りました。そのコンサートの途中、3曲目あたりで、突然、後ろからガクっと肩をたたかれたような感覚を覚えました。そして、それから、私の小さな不安は吹き飛び、なんだか大きな安心と力の中でピアノを弾きました。初めての感覚でした。そして、私は今まで私を導いてきてくれた存在はイエス様なのだと確信しました。しかし、頑固な私は、これを皆に言ったら、クリスチャンになったといわれちゃう・・絶対言ってはいけない!とお祈りのことは誰にも言いませんでした。(実は姉にだけ言ったのですが・・・)個人的な関係なのだと教えながら、なぜ口に出して告白しなければならないのか分からなかったからです。それは、人間が決めたカテゴリー分けのように思えたのです。

ゴスペルを弾くのを辞めようと思っていた私ですが、そのコンサートの体験により、細々とゴスペルクアイアのお手伝いを続けることにしました。そんな中途半端な状態は、前にも増して、悩み、苦しい時期でした。1年ちょっとすぎた頃には、気が付けば、クアイアやバンド、うっかり始めてしまったお店の経営で貧乏暇なしを絵に描いたような生活になってしまいました。大好きだったゴスペルも聞くのも弾くのも嫌になり、くたくたになった私がたどり着いた結論は全てをやめることでした。2005年、仕事も音楽も何も無い状態で再出発をしました。やりたいことは音楽、これだけは確かでした。ゴスペルの誘いは断り、自分が何を弾きたいのか、どんな音楽が出来るのか、挑戦してみようと思いました。そんなことをしている2005、2006年、大切な人が大きな病に倒れたり、天に召されたりということが多くありました。そんな中、自分のちっぽけな音楽に取り組んでいることが本当にむなしく、何をやってるのだろうとどどこに向かってピアノを弾けばいいのか、何をやって生きていけばいいのか分からなくなってしまいました。孤独やむなしさの中、今までで一番神様の存在を近くに感じていました。離れてみて本当のゴスペルの力が分かってきたのです。ゴスペルをやる中でもらったたくさんの言葉や体験を思い出し、私のゴスペルの時がどれほど恵みで一杯だったかを感じ初めていました。

当時私を励ましてくれた言葉のひとつとして、篤のクアイアをやめたいと言ったときに敦ちゃんがくれたファックスの一部を紹介します。「私達は弱いです。認められない、理解されない中でがんばったり、やめてみたり、あきらめたり。私もいつも間違えるし、でも分かってくれる人はいるし、何よりもこんな私を一番理解してくれるのは何も悪いことをしていないのに恥と拒絶を受けたJesusだと思って。人はこの恥と拒絶(理解されない)が傷の根だそうです。すみれちゃんには分かってくれる人も愛してくれる人もたくさんいます。すみれちゃんのピアノを祝福してくださいと祈っている人も。私も篤も祈っています。だってすみれちゃんのことを愛しているから。」かたくなにイエス様の愛を拒み、ゴスペルも一方的にやめて勝手なことをしている私に、本当に多くのクリスチャンの仲間がずっと音楽の仲間として、友達としてずっと側にいてくれ、祈り続けてくれました。そして、あきらめずにゴスペルに誘い続けてくれました。

2006年秋、Y’sシンガーズを誘われたことをきっかけにまた再びゴスペルを少しずつ弾き始めた私に篤がいくつかのゴスペルコンサートの演奏の機会を与えてくれました。その中のひとつ、2006年12月エクレシアゴスペルクリスマスコンサートで、ベース健太君、パーカッションのラムジーさんと一緒に演奏する機会をいただきました。その日は特別に楽しく、素晴らしいミュージシャンに囲まれて、久しぶりに思い切りゴスペルを賛美しました。そして、帰ってからもその興奮収まらず、旦那の憲ちゃんに「今日のゴスペルコンサートはすごく楽しかった。今まで楽しく演奏できてなかったのは、私のせいだったんだねぇ。うまくなりたいなぁ。とりあえずすぐに上手くはならないから、楽器がほしいなぁ。」なんて話したのです。憲ちゃんは「ドミノの初駒の話を知っている?ドミノは初めの駒を倒さないと全部は倒れないんだ。何か問題があるときはその問題を解決するための原因をドミノの初駒をさがさないとダメなんだよ。楽器を買うことではないんじゃない?」と話してくれました。私は即座に私にとってのドミノの初駒は神様だと思いました。そして、大森の3周年コンサートでメグさんが話していた、口で告白するっていうのは、愛してくれている神様に私たちからも愛してると告白するってことなのだと言っていた言葉が思い出されました。そう思ったらもう、すぐにでも「私は神様を愛しています」と言いたくなりました。今まで納得が出来なかったことや、不安に感じていたこと何一つ解消されていませんでした。でも、夜、隣で寝ている旦那の憲ちゃんの顔をみていたら、全てが大丈夫だと確信できたのです。涙がたくさん溢れ出しました。その数日後、エクレシア教会に行き、ティム牧師に信仰告白をしました。ゴスペルと出会ってから7年の時が経っていました。

その後、バイブルスタディをするたびに、本当に罪だらけの私をイエス様は私の罪をの身代わりとなって十字架にかけられ、ずっとずっと命をかけて愛し続けてくださっていたことを知っていきました。アメリカオークランドのゴスペルカンファレンスなどを体験する中で、才能も実力もキャリアもなんにもない私に音楽がゴスペルがピアノを弾くことが与えられているのは、ただただ神様の愛であるのだと。しかし、私にはまだ逃げていることがありました。旦那の憲ちゃん、両親にクリスチャンであることが言えなかったことです。そんな弱い私に神様はまたも素晴らしいチャンスをくださいました。レイちゃんのオリジナル曲を私がピアノを弾いてレコーディングしないかとコウジさんが誘ってくださって、そのレコーディングにあたって、洗礼をきちんとしないかと薦めてくれたのです。クリスチャンであることも伝えてないのに洗礼なんかとても無理だと思いました。たくさん祈り、兄弟姉妹に祈ってもらう中で、私の祈りを聞いてくださって、私の生きていく道を与え続けてくださる神様にきちんと従っていこうと思うことができるようになりました。そして、神様がふさわしい時、言葉を与えてくださいました。憲ちゃんとの関係も前と変わらず、かえって隠し事が無い分仲良しです。そして、たくさんの奇蹟を体験しながら、レコーディングを経験しました。長い間のたくさんの人の愛と祈りで、こうして洗礼の日を迎えることができたのです。


「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」伝道者の書 3:1

「神のなさることは時にかなって美しい」伝道者の書 3:11


「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」ヨハネの福音書 15:16