葬儀に参列


仕事で葬式に参列することがある。取引先の世話になった本人だったり、その家族だったりなので、弔事連絡がFAXで送られてくると弔電や生花の手配をして、会社の香典袋を持って通夜や告別式に出かける。弔問をとても大切にする人が多いのだが、困ったことにクリスチャンの葬式というケースはほとんどない。ということは皆で焼香をしたり、合掌をしたりという中に身を置くケースばかりだということ。

まず受付で記帳して、弔問に来たぞと仕事仲間に顔を売るのだが、遺族に挨拶が出来ないのでそれだけで帰ってしまうわけにもいかない。仏式の葬式の場合は焼香台に向って列が出来る。大きな葬式が多いので、たいがい3〜6人が横一列になって焼香をする。皆順番が来ると、まず右左の遺族に深々と挨拶。次に正面に向って深々と頭をたれる。当然正面には遺影や棺があり、それに向って頭を下げている。そして焼香。お香を親指と人差し指、中指でつまんで眉間に近づけ、火種の上に置くというのを3回やるが、弔問客がたくさんいる場合は1回で済ませるように案内される。

皆作法としてこれをやっていて、意味までは深く掘り下げて考えないだろうが、聖書は偶像礼拝を禁止している。遺影に頭を下げたり、焼香をしたりということは、まさにそれにあたる。

出エジプト記 20:3〜6
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

一応遺族にも弔問に来たぞということを知らせるために列に並ぶのはよいが、順番が来て遺族に挨拶をした後、皆と同じことは出来ない。遺族の席が焼香台に向って90度になっている場合はそれほど気にならないのだが、斜めにまるきり弔問客側を向いている場合がある。向うも神妙におっかない顔をして頭を下げて挨拶をしている。その視線にさらされながら、皆が焼香をしている間それをしないでお祈りをしている。遺族が皆見ている前で一人だけ違うことをしているわけだ。

残された遺族のために短く主にお祈りをする。「主の御名が述べ伝えられますように、感謝します、アーメン」。とっさには思いつかないので、こういう場合に適した聖句でも用意しておこうといつも思うのだが、つい忘れてしまう。こう祈って再び遺族に挨拶をし、引き上げる。一緒に焼香を始めた人たちとは自ずと時間差が出てくるので、先にお辞儀をして引き上げる。お、こいつ何か違うぞという視線を感じる時もある。信念を持っていても、一人だけ違う事をするというのは勇気がいる。

この他にも「ご道司様の入退出」に際しては合掌を持って迎え、送るように促され、霊柩車の出発に際しても、合掌を促される。当然これもしない。天理教の葬式の時はさすがに弔問の列に並べなかった。祭壇正面に向かって音を立てずに3回手を打ち、お辞儀をし、玉串奉献・・・などの礼拝作法を教わり、皆その通りにやっているのだが、こればかりその全てをやらずにお祈りをしているわけにもいかないと思い、受付の手伝いをしていた。基本的に受付やら、香典返しやらの持ち場で手伝ったり、荷物預かりを手伝ったりしてできる限りのことはするようにしている。

皆どう思っているのか、以前一人だけ何で焼香をしなかったのかと興味深そうに聞いてくれた人がいた。この機会を待ってましたとばかりにクリスチャンであることを証しして納得してもらったのだが、それも一度だけ。喪服の胸ポケットから携帯ストラップの銀色の十字架を下げていたこともあるが、皆と違うことをする理由を分ってもらうには良いアイデアだった。クリスチャンっていうのは違うんだ位にしか分かってもらえないだろうが、作法知らずとは思われない。クリスチャンっていうのはこういう場合どうするの?と聞かれるのを期待しながら待っている。

ペテロの手紙第一3:15
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

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