評価


成績表をもらって嬉しいと思ったことはない。ないにこしたことはない。期待で胸膨らむ長期休暇の直前にこういうものを渡す事は、精神的な殺人好意にも等しいと思う。

小学3年生の息子は、今まで成績表をもらってくるのをイヤだと言った事などないのだが、教室かTVで誰かが言っていたのだろう、まねをして気が乗らないようなことを言っている。まねだけなので帰ってきた時には隠すことなく見せてくれた。

今の成績表は昔のように5・4・3・2・1では なくて、◎十分達成している、○おおむね達成している、△努力が必要であるという3段階評価。見ても昔と違うのでまったく実感として沸いて来ない。クラス に5は何人、4は何人と決まっていたものが、息子が入学した年から評価方法が変わった。極端な言い方をすれば、全員全項目◎でも良いということになった。

マサイの子どもの頃は、「5」は人と比べて秀で ているという印象だった。確かクラスに2人と決まっていた。が今度のは個人的な達成度の問題なので、全体の中ではどうなのかということは分からない。◎や ○の数を数えたところで判断材料にならないので、見てもコメントのしようがない。新聞には教師の主観が入りやすく、教師間で統一された評価とはなりにくい と書いてあった。

ただ総合所見に「困っている友達を見ると、すぐにそばに行き声をかけていました。とてもすばらしいと思います」と書いてあったのを読んでほっとする。ほめてやると、本人意識してやっていたことではないので、きょとんとしている。

マサイは子どもの頃この所見欄に良いことを書か れた事がなかった。必ずといって良いほど「手悪戯が多い」と書いてあった。集中していないということなのだが、授業中ここに書かれるほどそのことについて 注意されたことはない。なのに成績表に書くとは何と卑怯なことかと思ったが、親にはこのことについてよく怒られた。ただ我が親は所見より5段階評価の方に 目が向いていたので、5がないのは何事かといつまでも怒っていた。ないのは授業に集中しないで遊んでいるからだ、と怒られる事にはつながっていた。

小学校の頃から始まって、学生でいる限り卒業す るまではこの成績表の評価が付きまとう。大人になっても解放はされずに、昇給につながる勤務評価というのがある。いつまでも自分を評価される数字に縛られ ている。同じ人間が行うのであるから、主観を切り離して公正に評価をするというのは不可能な事であるので、完全に正当な評価は出来ないと思っている。自分 だってそんな事は出来ない。

教師になりたいと思った事があるが、教育実習に 行った時、教育実習の先生が人気があるのは、成績をつけないからだと聞いた事がある。難しい事だが、皆良い生徒ばかりだったので、彼らを評価する立場には 立ちたくないと思った。自分が主観的な評価で付けたものに子どもたちは人生を左右されて行く。その責任はあまりにも重い。そう考えて教師になるのは諦め た。

完全なる公平、正義をもって、我々の事を深底から考えてくれるのは神様しかいない。不正が多く、評価者を疑う必要がある現代に於いては、自分を正しく評価してくれる方がいると思うだけで、我々は安心していられる。これは神の子である特権の一つであると思う。

箴言24:12
人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。

粁鯊綮12:6
すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「主は正しい。」と言った。

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