子どもの日常風景から


2003年は子供の日常風景から。
小学一年生の息子(義哉)は、同じ団地に住む同じクラスの子供達を休みの日も電話で呼び出して遊んでいる。仲の良いトリオができていて、楽しそうだ。

12月のある日曜日、パパは仕事、ママは熱を出して寝こんでいる。我々の登戸エクレシアキリスト教会には電車で2駅あるので一人ではまだ行かせられな い。するとトリオのうちの一人を電話で誘って、歩いて行かれるところにある教会の日曜学校へ出かけて行った。親がそうしろと言った訳でもなく、自分で考え て電話をしていた。ここの教会は9〜10時までの1時間、近所の子供を集めておさかなクラブという子供教会をやってくれている。「お父さんが仕事で、お母 さんは風邪で寝ていて自分の教会に行かれないので、今日だけここに参加しました」とママに教わって挨拶の練習をしてから出かけた。初めて行ったのだが楽し かったという。御言葉カードをもらって帰ってきた。

トリオは小学校のグラウンドでサッカーをしたり、我が家に来てレゴで遊んだりしている。そんな時何を話しているのだろうか、と細君が耳を済ませて聞いてみる。
義哉「人間は何から生まれたか知ってるか?」
「知らない」
義哉「人間は土から生まれたから土に返るんだよ」
「へぇ〜知らなかった。俺は人間は猿から生まれたんだとばかり思っていた」
そこでよく教えてあげたという。お友達が帰った後、「猿からだって、おかしなこというね」とけらけら笑っていた。

また別のある日。
義哉「クリスマスは何の日か知ってるか?」
「知らない」
義哉「イエス様の誕生日だよ」
「イエス様って誰?」
義哉「そんなことも知らないのか。イエス・キリストだよ」
「あ〜キリストかぁ」
後でママに言ったことは、「○○ちゃんって何にも知らないんだね」。
当然のことながらこういうことは伝える人がいないと分からない。子供は教えられたことはそのまま信じて覚えている。そこに疑いは何もない。

お友達の家に行った時のこと。
皆でサッカーをやろうということになったのだが、その家の子いやがったらしい。友達皆にボール遊びが好きじゃないから、サッカーや野球をしないことにつ いていじめられていたという。でも息子曰く、電車の絵を書かせるととても上手く書く繊細な子らしい(その絵が上手いことを我が家でも誉めていた)。そんな 皆に言われている時に「KはKなんだからいいじゃないかよ」とかばってやったらしい。それを奥の部屋で聞いていたお父さんが、その言葉に感動して涙が出る ほど嬉しかったらしい。「あいつは他の子と何か違う」と言っていた、とわざわざお母さんが教えてくれた。お父さんはすっかり義哉のファンになったらしい。 そのことを息子に聞くと「え?」という表情をした。本人特別なことをしたとは気付いていない。ごく当たり前の事として自然にしゃべっているらしい。

12月22日、礼拝から帰ってきた午後。明日は休みだから自分の部屋の大掃除をしなさい、と言ってあったが、今日やれば明日は遊びにいっていいか、とい う。パパにお許しをもらった我が子は、ママにゾウキンを出してもらって、さっそくバケツに水を汲んで用意を始めた。ちゃんとマスクまでしている。部屋の荷 物を全部出して、掃いて拭いてをしている。マサイはその間教会の月報や週報を作っていたのでほおっておいたが、すっかり綺麗に片付けた。綺麗に出来て本人 も自慢げだ。
実に良く出来た子供で、いつも感心している。両親は自分たちが子供の頃こんなに親に誉めてもらった記憶がないので、息子をすごい奴だと思うと同時に、親に誉めてもらえることがうらやましくもある。

またある日、同じ教会に通う同級生が遊びに来た。折り紙で小人を折ってカレンダーを作っている。
義哉「ここに御言葉を書こうぜ」
「うん」詩篇115:15を2人でそこに書いていた。これが遊びの中で自然にしているというのがすごい。
教会学校でもらう毎週の御言葉カードを、1週間食事の前に暗誦するというのをずっと続けてきた。求めなさい〜(ルカ11:9)、神は、実に、そのひとり子を〜(ヨハネ3:16)は完璧に覚えている。教会学校の大切さを痛感する。

ローマ人への手紙 10章
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」


コロサイ人への手紙2章3節
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
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