「鍵は黙示録にあり」


 通勤電車の中では本を読んでいる。イヤホンをして音楽を聴くことはしない。マサイが好む音楽は、ピアニシモでは聴こえなくなり、フォルテシモでは周りに気を使って音量を下げてしまうので楽しみが半減してしまう。だから音楽は家で聴くことにしている。15歳からずっと通学、通勤の友は本なのだが、かれこれもう41年以上読み続けている。今、出社時は途中までが祈りの時間なので、祈りが終わり次第本を取り出す。
 聖句や聖書箇所が出て来る小説を気に入って読んでいる。作品の中に聖句を見つけ出し、作家が繰り返し読んだ聖書から神様について何を語っているのか、それがどこに隠されているのを読み解いている。時には囲碁のように自分に都合の良い「勝手読み」になる場合もあるが、展開的にはずれが出たとしてもそんな風に読むのは実に楽しい。それが正しい読み方だということではない。解釈上それは違うと反論を持たれる方もいるであろう。あくまでも個人的な楽しみでやっていることなので、その点はご理解いただきたい。
 ほぼ30年前に読んだ外国小説を違う翻訳者で読み直している。翻訳者が変わると随分印象も違う。全集を買って読んだお気に入りの作家なのだが、さすがに30年もたつと内容が思い出せない作品もある。その作家の長編小説は5つある。これから1年に1作品ずつ読んでいけばちょうど定年前には読み終わる、という計算のもとに昨年から読み直し始めた(何故定年前までにと考えたのか、などはあくまでも個人的な問題なのでここには書かない)。
 読み直しといっても、中には3回目、4回目のものもある。しかし作者がその作品を書いた時の年齢を読み手の自分が超えて読むのはこれが初めてである。印象は随分違う。また2回目以降はクリスチャンになってからなので、聖書的観点から読んでいる。今回は上に書いたように、作品を読みながら聖書についていろいろ考えることができたので、それを書いてみる。
 昨年読み返した1作品目は、20代で最初に読んでから4回目で、読むたびに新しい発見がある。さすがに5回目はないだろうと思って、細かにノートをつけながら読んでいた。ここではヨハネの福音書のラザロの復活の箇所が中心となって物語が組み立てられている。盗品を隠す場面で登場する、転がされた大きな石というのも実に聖書的なメタファーだな、と考えながら読んだ。新約聖書のいくつかの箇所が重要な役割を果たしているのに、作品解説の類を読むと、ほとんどその箇所に触れていない。わざと触れないようにしているように思える。そういうところは実に残念である。
 今年選んだ2作品目の舞台は、ロシア中西部の地方都市と、その郊外にあるスクヴォレーシニキと呼ばれる別荘地。事件は1869年の秋から冬にかけて起こる。日本では明治になったばかり、版籍奉還が行われた年である。1861年のアレクサンドル二世による農奴解放令以後、ロシアは新たな自由化の波に翻弄され、社会全体が混沌とし始めていた。この作品を読むのは2回目である。
 まずは巻頭にルカの福音書8章32~36節がある。

8:32 ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。
8:33 悪霊どもは、その人から出て、豚に入った。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。
8:34 飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。
8:35 人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。
8:36 目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。

 物語が始まる前の予告的なものである。1回目に読んだ時は、いきなり聖句が出て来るので嬉しく思ったものだが、この聖句をどう理解すればよいのかが大きな問題だった。悪霊自身がイエス様に底知れぬところへ行けと命じないで(31節)、豚に入ることを許してくれと願う。行き先を指定して追い出してもらっていながら、その直後に自殺行為が起こる。この作品中、自殺は主人公だけである。登場人物が次々に命を奪われて行くことにつなげるために巻頭にこの聖句が置いてあるのだろうと当時は考えていたが、何となく釈然としないものがあったので、今回は、実は作者の言いたいところはそこではなくて、

8:35 人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。
8:36 目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。

というところにあるのではないか。この小説を農奴解放で混沌としたロシアに起きた革命騒動のメンバー内での殺人をめぐる物語と受け止めている人も多いようだが、主人公に取りついたいろいろな悪霊が追い出されて滅んでいき、主人公は正気に返り、信仰を手にする物語なのではないだろうか、と考えながら読んでいた。実に聖書的だ。
 聖書のこの箇所にのみ忠実に話を進めるならそういった展開もあるなと十分期待して読んでいた。しかし物語は、そう進まなかった。聖句通り主人公から追い出された悪霊は若者たちに乗り移り、怒涛のように湖に雪崩入って溺れてしまった。それはまさに上に書いたルカの福音書8章通りだったが、主人公一人だけがそう進んでくれなかった。この聖書箇所はマタイの福音書とマルコの福音書にも同様の記述がある。この主人公の行動の鍵は、きっと巻頭の聖句がヒントであって、次の38節以降にあるに違いないと思っていろいろ探したが、正気に返ったレギオンはその後出てこなかった。この聖句だけに物語のヒントがあるのではないらしい。
 その他文中には副主人公的なS氏をめぐる展開の中で、「右の頬を打たれたら」という断片的な言葉や、福音書売りの女性が「山上の垂訓」を読むという短いくだりがあるが、この箇所が膨らむようなことはなかった。
 物語の文中で聖句全文が出て来るのは、黙示録3章14〜17節である。ラスト近く、福音書売りの女性がS氏に適当に開いたところを読んでくれと言われて、この箇所を読む。しかし本来は、主人公が修道院に主教を訪れた際に、主教が聖句を暗唱する場面で登場するものであった(ここの箇所の扱いについては、過去いろいろなことがあったらしく、原文中ではなく巻末に付録として付けている出版社もある)。

3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

 さて、これをこの作品にどう結び付けて行くかだが、原文で読んでいるわけでもないので、マサイ個人はこう考えながら読んだという(あくまでも個人的な)こととしてご容赦願いたい。
ラオデキヤはローマ時代には富裕なことで知られた町で、金融業、毛織物、眼薬で有名であった。日本の作品解説では、絶対に聖書や信仰に結び付けて作品を考えないが、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい、というのは、100%イエス・キリストを受け入れる、またはイエスに捧げることであって、生ぬるいということは、その反対を意味する。主教にこの聖句を読んであげたいと聖書を要求した主人公の根底にあったのは神様を求める心であり、同時にそれを暗唱した主教からは、神様を知らないあなたは、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」、だから神様を受け入れ、神様に全てを捧げよ、というメッセージが発せられていたということであると考える。
 主人公は、神様を受け入れる瀬戸際に立って揺れていた。無神論は無関心より神様に近い、と主教は語る。しかし結局主人公は、神様を認めながらもそこにたどり着くことを自らの意思でしなかった。
 主人公は神様に到達し得なかったが、福音書売りの女性に同じ黙示録の箇所を読んでもらったS氏に救いは現れる。ここには直接出て来ないが、黙示録の前述に続く箇所は、以下の通りでる。

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしと/ともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

 重要な登場人物の一人であるS氏は、最期に救いにたどり着く。S氏は20年以上にもわたり生ぬるさの中にあったが神様から吐き出されることなく、自らの意思でそこから出て、神様への信仰を告白した。
 作者が書きたかったところはここにあったのかとやっと気付いた。1回目に読んだ時も、今回も、1巻目最初にあるルカの福音書の聖句があまりに印象強く、そこだけに捕らわれていた。ルカ8章の周辺を何度も読み直しても釈然としないものがあった。一人で悶々としていたが、あきらめてどういう意味だろうと細君に話してみた。詳しく説明をしているうちにはっと気が付いた。鍵は黙示録の方にあり。こっちなのか、と目から鱗的な気付き方だった。神様の意思も作家の意思もここに表れていた。黙示録と合わせて考えることをしていなかったので、作者の言いたいことにたどり着くのに随分かかった。
この作品を読みながら、また読んだ後も、聖句について随分考える時間が持てた。充実した時間であった。素晴らしい聖句に感謝します。