「弱さを認め、祈り、委ねる」


難解な局面に遭遇した時、この場所に自分を導いてくださったのは神様であって、自分ならそれができると神様が思ってくださったから自分がここにいるのだ。神様のご計画なのだから、きっと出来る、上手く行く、神様が解決してくださる、と考えるようにしている。
問題が発生した時は、まず祈る。そしてこう心の中で繰り返すと不思議と心は軽くなる。非力な自分がひとりで抱え込んでも解決出来るわけがない、神様に委ねよう、と肩の力を抜くと、煮詰まっていたものがすっと解決したりする。神様感謝します。もし信仰がなかったら、随分前に潰れてしまったかもしれない、とよく思う。
仕事を長年やっていると、それなりに背負う責任が重くなる。この責任も分け合えたり、上司に渡せたりするものなら良いが、だんだん自分のところで受け止める責任が増えてきている。責任を押し付けて、後ろに隠れていれば良い周りが気楽に見えてくる。
責任に押しつぶされて鬱(ウツ)になってしまうケースもあるようだ。どういう人がそうなってしまうという分類は簡単に出来るものではない。真面目な人ほどなる、という人もいる。人に任せられないで自分で仕事を抱えてしまって、どうにもならなくなったところで発症するらしい。管理職の場合と、新入社員や転勤等で環境が変わったばかりの人が要注意で、人間関係、仕事量の問題が精神障害に発展して、ひどくなれば休職につながる。
マサイは職場での人間関係について、相手に腹を立てる前に考えてみる。言われたことに対して自分が満足できるような返答ができなかったり、言われた通りのことができなかったりした自分に腹がたっているだけで、それを言った相手に怒りをぶつけるものではないのではないか。これが分かると職場の人間関係は多少なりとも改善される。
またどうにも解決できない問題に突き当たったり、この難局は解決不可能ではないか、このまま続けていても終わるのだろうか、と不安になったりすることがある。できれば見なかったこと、気づかなかったことにしてしまいたいと思うことがあるが、気づいてしまったものはどうしようもない。しかしいくら遅くまで会社でパソコンに向かって考えてみても、休日に会社に出ても、どうにもならない時がある。
最近は煮詰まったら一旦帰ってくるようにしている。追い詰められていたところから脱出を図るので、逃げるようにして会社を出る。帰り道はまだ仕事のことが頭の中を占めているのだが、家に帰ると、忘れられる時間がある。仕事場を離れることによって、祈る時間を取ることができる。そこで自分ひとりで解決しようとしていたものを神様に委ねてみる。内向していた頭を解放して、自分はあまりにも弱い、できませんので、解決できるように導いてください、と祈る。そして寝てしまう。翌朝細君にうなされていたと言われることもあるが、本人は多少なりとも冷静になれている。なので、翌日会社に行く時は、祈りの答えを期待するような楽しみがある。神様に委ねた安心感もある。職場に行くと、解決策を与えられることもあるし、他の人を通して解決に向かっていたりすることもある。
自分の弱さを認め、祈り、委ねること、最近はこの3つに支えられていることを強く感じている。難解な局面は自分が遭遇したのではなく、それは神様のご計画であり、それを通して神様が自分に働きかけてくださっている。そうであるから必ずこれは乗り越えられる。全て神様のご計画なのだから、きっと出来る。それは確かなことである。加えて細君が祈りで支えてくれている。神様、感謝します。細君、有難う。

コリント人への手紙第二
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

コリント人への手紙第一
10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。