「山に向かって目を上げる」


最近は早く起きてもまだ暗い。日が出るのを待ってから走り始めている。出たばかりの日は低いのでとても眩しい。多摩川の土手を走っていると、朝の空気が澄んでいる中、白く冠雪した富士山が綺麗に見える。ほんの山頂部分なのだが、何度も首を横に捻じ曲げて見え隠れするその姿を確認する。不思議なもので、富士山が綺麗に見えると、何か良いことがありそうな気がして嬉しくなる。曇っている日や、あるべき場所に見えなかった日はその後のランニングの気分にも影響する。
息子の高校入試の日に送っていった駅から富士山がとても綺麗に見えたのを覚えている。11月に大阪へ行った新幹線の中からも綺麗に見えた。こちらは普段見ているものと違ってその大きさに圧倒された。何より安心出来る安定した形なのだろう。見ていてホッとする。回りに競合するもののない唯一の存在であるということも良いのだろう。2013年6月にこの富士山がユネスコの世界文化遺産に登録された。屋久島、知床、小笠原のような自然遺産ではなく、文化遺産で「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」という登録名だった。
登らぬ馬鹿、2度登る馬鹿と富士登山について言われているが、この富士山には1度登ったことがある。一生に一度くらいは、と28年前の夏、急に思い立って一人で登ってきた。日頃から山登りをしていたわけではないので、当然装備も、山に対する知識もない。7月の頭だったが、日本の最高峰に登ろうというのに無謀と言える。しかしこの山は受け入れてくれた。
三島からバスに乗って富士宮口の5合目まで行き、そこから森林限界を超えた何もない斜面をジグザグにゆっくり歩いて行った。長い杖をついて、そこに合目ごとに焼印を押してもらいながら登ったのだが、スイスやカナダのトレイルを歩いているのと違って、苦行にも似たものがあった。オーバーオールの胸ポケットにピーナッツと小魚のつまみとチョコレートを入れて、食べながら登り、頂上で夜を明かし、翌朝見事なご来光を見た。眼下に赤く染まった雲海が切れて行った。神様の業を見たような、心にしみる風景だった。
2度登る馬鹿の意味は、富士山は遠くから眺めてこそ美しい山であるということなのだろうが、登らぬ馬鹿の意味も大きい。一度はこの風景を目にしておくことは大切であると思う。大自然と一体化できた感動があった。登って良かったと感動しながら御殿場口に走り降りてきた。以来その姿を見るたびにあの頂上にいた自分を思い出すので余計感動するのかもしれない。
静岡、山梨の両県が来夏から夏山シーズンを通じて「保全協力金」を徴収するという。支払いは任意だが、登山者一人1、000円が基本で、富士山で入山料が徴収されるのは明治初期以来104年振りだという。そんな記事を今朝読んだばかりなので、走っていても思いは富士山の方へ向かっていた。
高いものに向かって目をあげると、いつもあるものが変わらずそこに有る安心感。富士山を見て神様の存在はこんなものなのだろうなぁと考えながら走っていた。我々が目を上げればそこに在る神様の姿を確認できる。目を上げなくてもそこに在り、いついかなる時も常に我々を見ていてくれる。そう感じるたびに、以前神様の愛に満たされた時の感動が蘇ってくる。神様の存在の大きさと偉大さが実感出来、感動に包まれた朝のジョギングだった。

詩篇
121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。

出エジプト記
3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」