読める字で書きます


ずっと日記をつけている。昔ながらのアナログタイプのもの。日記帳に日記をつける。朝起きて一番に前日の事を書くので、書きなぐりに近い。4行だけだが、一日にあったことは一通り書ける。自分以外には読めないようにわざとそうしているのではないのだが、自分でも読めない字がたくさんある。

マサイの父方の祖父は学校の先生から最後は地区の教育長を務めた人だが、日記をつけていた。昔ながらのハードカバーの日記帳で、箱入りのものが机の上立っていたような気がする。2階の祖父の部屋を内緒で覗きに行った時の遠い記憶である。整然とした部屋とその日記帳の印象が残っている。日記を書くという事が、祖父は立派な人なんだという子どもながらの思いにつながって残っている。

高校生の時に、読んだ本を手帳につけていたのが始まりだった。結婚して2.3年書かなかった時期があったが、続けていないと、たとえ何もない一日であっても、振り返った時に空白の過去が生じてしまうような気がする。それが少しでも記録を残すことで、過去の一日として生き続けてくれる、という自分なりの奇妙な思いがあって、書き続けることにした。

今は10年日記という10年分を1冊にまとめたものに書いている。同じ日が1ページになっているので、去年の今日は、一昨年の今日は何をしていたかがすぐに分かる。読み返すのも日記の楽しみの一つ。去年は花粉が少なかったとか、そろそろインフルエンザの注射を受ける時期だ、などを家族と分かち合う。1年間でいろいろ考えも代わるもので、読み返して自分の変化を楽しめる。

息子の家庭科の宿題で、生まれた時の身長、体重、親がどんなふうに思ったか、お気に入りのおもちゃ、最初に話した言葉、歩き始めたのはいつか、どんな子だったか、小さい頃の写真を見ましょう、というものが出た。面白い宿題で、親に取材する宿題だ。

息子が生まれる時のことは細君が詳細に日記に残している。読み返してみると実に温かい気持ちになる。この宿題のためにその日記やアルバムを引っ張り出してきて3人で読んだ。そういえば、いつもクマさんの人形と一緒に寝ていた。あの時の音が出るおもちゃは今まだ天袋にしまってある。初めて寝返りをうったのは今の息子の部屋だ。つかまり立ちしたのは遊び行った先の軽井沢のペンション。初めて独り立ちして歩いたのは我が家の居間から台所へ向けてだった。歩き始めたのは早かった、など話に花が咲く。生まれたばかりの頃の息子をマサイがスケッチしたものを見て、息子がカワイイという。こういう時は記録を残しておいてよかったと思う。

実に楽しい時を持てた。食卓でのこの楽しい会話は、感謝だね〜という結論につながった。我々の生活に神様のご計画と祝福が如何に溢れていたかということがよく分かった。

日記というものは、自分の人生に神様の祝福が如何に溢れていたかということを気づかせてくれるものである、ということを発見した。実に素晴らしいものであるが、日記文学といわれている有名な作品のように他の人にも読ませるために発表するつもりはない。せめて自分で読み返した時に判別できるくらいの字で書いておこうと反省した。

詩篇 147:12〜14
エルサレムよ。【主】をほめ歌え。シオンよ。あなたの神をほめたたえよ。
主は、あなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ。
主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる。

箴言 10:22
【主】の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

月刊マサイで引用している聖書本文は、新改訳聖書第三版(©新日本聖書刊行会)を使用しています。
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