心配してくださる


50才を過ぎてから人の名前がトンと思い出せない。40才くらいから始まった症状だが、一度引っかかるといつまでも思い出せない。年齢ともにそれにどんどん拍車がかかっている。顔は分かっていて、喉元まで名前が出てきているのだが、そこから先が出てこない。間違えるといけないので、呼びかけなくなる。

老眼がひどくなっている。眼鏡を外せば見えるので、眼科医には特に問題ないと言われている。電車の中で本を読む時は必ず眼鏡を外さないといけない。本屋に行った時に、背表紙で探す時は眼鏡をかけて、中身を見るためにぱらぱらページをめくる時は眼鏡をはずす。不便を感じることが多くなった。

仕事をしている日中は忙しい。とても忙しくて、パソコンが高速回転処理をしているような、ウィーンという音が頭の中で聞こえる気がする。定年退職をして、こんなふうに頭を使うことがなくなったら、ボケるんじゃないか、などと心配している。しかし別に倒れるほど仕事をしているわけではなく、眩暈を覚えることもない。

人混みを極端に嫌がるようになった。休日は出かけるより、ゆっくりしていたい。疲れが抜けにくくなってきている。それなのに朝寝が出来ない。早く目が覚める。一度目が覚めると、寝ていられない。そのくせ、毎食後はすぐに眠くなる。

これは老化現象というやつか。どこかが悪いわけではないだろう。現在一番信用している自己診断は、走って確かめるもの。もう10年以上走っているので、どこか悪ければ、ここで自覚症状が出てくるはずだと考えている。昔からのコースを同じように走ってみて、疲れが違ったり、局部的に痛みを感じたり、時間が極端に長くかかるようになったり、鼓動が妙に速くなったりすれば、それが目安になるはずだ。どこか悪ければ、1時間も走り続けていられないでしょ、と自分に言い聞かせて安心している。幸い今のところそういう自覚症状は全くない。

昔ならこんな自己診断は必要がなかった。どこか痛くても、すぐに治るだろうくらいに思って気にしないでいられた。それが最近は何かにつけ、生死の際にまでつなげるようになった。どこかが痛む。すわ血管が詰まったのか。脳梗塞か、心筋梗塞か。痛むところはリンパに近い。全身に転移するかもしれない。足首が痛い、回りにアキレス腱を突然切った人がいる。松葉杖が思い浮かぶ。年齢的なものや、親の手術の件もあるので、心配の種はいくらでも出てくる。WEBですぐ何でも便利に調べられるので探してみると、「○○症」に近い症状だ、その疑いありか。入院。手術。保険でまかなえるか、家族は、仕事は?考えるほどに気が沈んでくるが、どんどん思いは先へ先へと進んで行く。

しかし冷静に考えてみれば、表面が痛いのに、内臓が悪いわけがない。一日デスクワークをしていれば、健康な人間でも腰は痛くなるし、猫背にもなって背中が痛くなってくる。パソコンの画面を見っぱなしなので、目も痛む。視神経の疲れから頭痛も起きる。食事に行く時間も持てずにキーボードを打ち続けていれば、腱鞘炎にもなってくる。毎年行く人間ドックで、自覚症状がないのに数値が基準値をはずれている、と示されれば、そこが悪いような気がしてくる。病は気から。確かにそうだ。

年齢的に健康に注意しなければいけない世代なのである。今自分が倒れたら、妻子、年老いた両親はどうなるのか。これが何より心配だ。だから、健康については、家族、みんなのもの含めて毎朝祈っている。必ず祈る。必要のないことに惑わされて思い悩むことのないように。何でも不治の病に結び付けて心配しすぎることないように。健康でいられるように。あらゆる事件、事故、怪我、病気からお守りください。

神様はきっと守ってくださる。そう信じている。感謝します。

コリント人への手紙第一 2:9,10
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

ペテロへの手紙第一 5:7
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

月刊マサイで引用している聖書本文は、新改訳聖書第三版(©新日本聖書刊行会)を使用しています。
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