続けてます


まだ走っているんですか、と挨拶代わりによく聞かれる。答えた後、うらやましがる人たちからこう聞かれることが多い。

マサイは走り続けている。一度気に入って始めたことは、滅多なことではやめない。外を走るようになって9年たった。合計するともうじき7,000kmになる。あと4年も走り続ければ地球1/4周達成というところか。今年前半は足を痛めて走れない時期があったのだが、その時も速足のウォーキングを続けていた。歳をとってきたので、一回痛めると治るのに時間がかかる。完全に治るまでに最低ひと月はかかるのがやっかいだ。その間走れない。

毎年年初には、健康のために走るのだから、スピードを上げずに、ゆっくり、適度な距離を、体を痛めない程度に走り続けよう、と思うのだが、一年の半分も過ぎると考えが変わってくる。走った記録をずっとつけているので、前月比較、昨年同時期比較、年間走行距離累計などをパソコン上で見る事が出来る。そんなデータが気になってくる。

「月間10回以上走る、累計距離としては100km」、などと目標を立ててしまうと、それに向かって、むきになって走ることになる。月初めから9回走ってきて月末を迎えようものなら、末日の朝は仕事があろうと走らずにはいられない。それで今月も10回走れたと満足している。異常な程数字にこだわる悪い性格なのかもしれない。

単純に割ると、1回10kmずつ10回走れば回数も距離も達成するのだが、出勤前はそんなに長く走れないので、その分週末に余計走ることになる。夜仕事が終わって家族のもとに帰って来て、またすぐに外に行くというのはいやだし、休日の日中家族が一緒にいられる時間に一人で外に出るのもいやなので、走るのは週末、仕事や息子の大会がない日の早朝だけに限っている。朝がまだ明るい時期は、仕事に行く前、妻子が寝ているうちに家を抜け出し、息子が起きる前に、帰ってきてシャワーを浴び終えるようにしている。家族揃って一緒に朝食をとる(聖書を読んで、各自が祈ってから食事をとる)のが我家の習慣なので、忙しい朝を送っている。

そこまでして何で走るのか。走るのは好きだ。苦しい走り方はしないので、辛くはない。しかし走り始めるまで、気持ちが乗らない時もある。あれこれ理由をつけて布団から出ないように工夫してみる。雨が降っていない空を恨めしく見た事もある。そういう時は走り始めてもしばらくは引き返したくてしようがない。しかし走り終えてみると、これ以上気持ちの良いことはない。あぁ走ってよかった、と満足出来る。

走っていて、いつも会う人がいる。中には挨拶をするようになった人もいる。顔をジロジロ見るわけにはいかないのだが、走り方を見れば大体分かる。お互いにすれ違うだけだが、久しぶりに会うと、あの人まだ走っていたんだと、嬉しくなる。元気を貰ったり、励まされたりする。初めて見た時は太った体で、汗をたくさんかいて、見るからに苦しそうに走っていたので、大丈夫ですかと、声をかけようかと思った人が、今ではすました顔をしてマイペースで走っていたりする。

大会に出るのが目的ではなく、健康のためというのが走る目的の第一である。50歳を過ぎると、自覚症状はなくても、健康診断で引っかかる項目が増えてくる。その数値は走って血流を良くすれば正常値になるのか、ならないのか分からない(全身の毛細血管の隅々にまでくまなく血流を届けるためには、もっとゆっくり走らないといけないということは分かっている)。しかし何もしないで又悪い結果が出るよりは、何かをしていた方が安心出来る。父親が詰まった血管を治す手術をしているので、同じ悪玉コレステロール値が高いマサイもそうなる危険性はある。それにはやはり運動だろうと自分に言い聞かせている。

健康のためとはいえ、辛いことを歯を食いしばってやるのでは精神的にもよくない。楽しくやらければ続かない。一旦始めたことは長く続けたい。今年も8月以降は順調に走れている。続けるこつは、無理をしないこと。無理をして怪我をしたら、休まなくてはいけないし、楽しみがお預けになる。故障をすると治るのに時間がかかるので、確かに無理はしないようになった。自分の年齢なりに楽しんで続けていくのが一番。

エペソ人への手紙 4:11〜13
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

「職場を通して神様の素晴らしさを現すことは、私達ひとりひとりの使命である。私達は神様の素晴らしさを反映するために、イエス様の代わりに職場の中へ祭祀として遣わされている。これは全て神様からのギフトであって、天と地の主権全てを持つ神様が全て整えて準備してくださったもの。

生まれながらの才能は、コミュ二ティーを建てたて上げるためのものである。神様の栄光のために、教会を建て上げるために、必要なもの。良い動機で行えば霊的なもの、神様のもの、となり、教会のためになる。何よりそれは神様からのギフトなのであり、神様の素晴らしい御業を述べ伝えるためのものなのだから。」

箴言15:13
心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。

箴言16:9
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは【主】である。

走り続けて行けば、地球半周くらいは出来るかな。本当に無理をしていないんでしょうね、と細君にはよく問い詰められる。

月刊マサイで引用している聖書本文は、新改訳聖書第三版(©新日本聖書刊行会)を使用しています。
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