もうすぐ50才


珍しい男から電話がかかってきた。中学の同窓会をやるという。今では年賀状のやり取りだけのつながりだが、こういう時には誰かに住所を知らせておくと、ちゃんと連絡をくれるので有難い。50歳だからという節目で招集をかけているという。残念ながら11月の大阪遠征の日と重なっていたために出席できなかった。

同級生のほとんどが既に50歳になっているのだが、マサイは早生まれなので年が明けて3月末の誕生日が来るまで40台でいられる。しかし2桁目の数字が変わるというのは、いつもの年とは違った大きな節目的なものを感じる。

30台に乗った時は、突っ走れた頃に後戻りできないことを宣言されたような寂しさを感じた。40台では自分の人生は半分を折り返したのだろうか、という考えにとらわれた。そんな風に今迄は後ろ髪を引かれるようなステップアップだったが、50台に乗る今は、いよいよ来たな、という期待感の方が大きい。映画も安くなるし、マラソンのエントリーも50歳以上の部になる。老年というくくりの最年少メンバーになる訳だ。

以前は50という響きに随分老いたものを感じていたものだが、近づいてみれば何ほどの事はない。ジョン・アップダイクのウサギ4部作の主人公ハリー・アングストロームのように、年は重ねていくが、本質的には変わらないままの自分を感じる。若くはないが、気持ちまでは老いていないからかもしれない。

しかしそれは自分の頭の中だけのことで、外身も中身も、今迄と違うと感じるものはある。確かに何の恐れもなく、前へ前へと突き進めた頃の勢いはない。

自分の家族が出来た後は、怖いと感じることが多くなった。家族に対して大きな責任がある。前へ進む代わりに、留まって大切な妻子を自分の翼で覆い守ることに多くのエネルギーを費やしている。家族を守る肉食獣のようだな、と思うことがよくある。外敵に対して目を光らせているので、人ごみに行くと疲れるようになった。人生の主役の座はもう息子に譲ってあるので、主役を脇から見ていることが一番楽しい。

あれもやりたい、これもやりたい、それには時間がない、というあわただしい気持ちはなくなってきたが、相変わらず何か新しいことを始めたいという気持ちはある。

40台はいろいろなことが出来た。サーフィンやテニスを始め、フルマラソンも走った。随分元気な40台だった。ここでまた一つ高い階段を踏み上がる。

しかし老いを怖がる事はない。そこにどんな新しい世界が開けるのかを楽しみにしている。定年までもあと10年。主がこの次の10年に何を用意されているか楽しみである。

イザヤ書61:10,11
わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。


月刊マサイで引用している聖書本文は、新改訳聖書第三版(©新日本聖書刊行会)を使用しています。

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