信仰の原点


あっという間のような気がしますが、月刊マサイを書き始めて10年経ちました。一本でも読んで下さった方に、教会のHP掲載に協力して下さった全ての人に、毎月欠かさずに読んでくれた細君に、書かせてくれた神様に感謝します。

国内ばかりではなく、海外からもいろいろ励ましのメールをいただきました。出会いもありました。読み返すと我が家の歴史にもなっているので懐かしい物ばかりです。これからもまだまだ書き続けて行くつもりですので、今後とも宜しくお願いします。マサイ

「ひとを批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」、と父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」
(F.S.フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」野崎孝訳)

大学でゼミの論文を書くのに選んだ作者の代表作だが、冒頭にある語り手のニック・キャラウェイが父親から言われたこの言葉が一番頭に残っている。訳によってちょっとニュアンスが違うが、日本語ではこの新潮文庫版を繰り返し読んだので、文章がこのまま頭に入っている。

とにかく一歩家の外に出ると、ストレスが多い。最近特に多くなった。ストレスを感じる自分が一番ストレスの元なのかもしれないと反省してはみるが、あちこちにサタンの悪意を感じる時がある。悪意以外の何物でもない。おまけに中途半端な管理職にいるので上からは責任、責任と毎日のように言われている。全くひどい状況だ。感じたストレスは放出されたがっている。そんな時、人を批判したくもなる。

しかしストレスを感じたり、爆発したい気持に捕らわれた日も、細君と息子とゆっくり夕食をとりながら楽しく話しをしていると、「あぁ幸せだなぁ」と実感出来るので、大抵のストレスはどうでも良くなる。

そんな時に冒頭の文章が思い浮かんだ訳だが、どれだけ恵まれているかということを考えた時に、しばらくぶりに信仰に入る時に背中を押してくれたパンフレットのことを思い出した。もっと大きな恵みの存在に気付かせてくれたものだ。

まだノンクリスチャンだった1991年6月にフレンドシップ奥多摩という教会の行事に参加した時、宿舎でイラスト入りの小さなパンフレットを見つけた。「きらいだよ」というタイトルがついていた(無断転用で申し訳ありませんが、感謝の意をこめてここに紹介させて下さい)。


人には誰にでもキライな奴がいる。
それがイライラ・不平・不満のタネ。
「あいつがいなければ…。」
「あいつが悪い。」
でもその「あいつ」がいなくなると、
ちゃんと別の「あいつ」が現れたりする。

そしていろいろつきつめると、
一番キライな奴は自分だったりする。
問題は自分の中にあったりする。

変えようと思っても、上べをちっとばかり飾ってみても、
中身はたいして変わらないのだ。
キライなものは、自分の中から出てくる。

でも、変える方法がひとつだけある。
変えるのではなくとりかえるのだ。

イエス・キリストは、私達の罪のために十字架につけられた。
そして3日目によみがえり、新しいいのちを私たちに与えてくださる。
そう聖書に書いてある。
このイエスを信じる人は、自分自身から解放され、
新しいいのちで生きることができる。


目からウロコ状態でこれを読み終えた後信仰生活に入ったわけだが、今原点に戻って再び読んでみると、また目にウロコがついていたことが分かる。忙しさとストレス社会でいつの間にかたまってしまっていたのだろう。今それが目から落ちてほっとしている。ストレスに潰されることなく、怒りが消滅し、胃のつかえが取れて行く。

信仰の原点に立ち返ってみるのも良いものだ。このパンフレットの内容については洗礼式の証しで紹介させてもらった。解決はイエス・キリストにある。それはいつでも変わらない。それを確信できた。神様感謝します。

コリント人への手紙第2 5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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