マサイおいたちの記vol.1


正月の各神社の予想参拝者数を聞いていつもどうやって算出するのか不思議に思う。

生 まれ育った家には神棚があった。仏壇はなかったが、神棚にはだるまさんも乗っていた。月に一度榊を仏具屋から買ってきて、真中に天照大神の札がある神棚の お社の両側に供えた。台所には荒神さんという小さな火の神様の御札を張ったお社が茶箪笥の上に乗っていた。特に信仰はない。文化行事のようなつもりでやっ ていた。

子供の頃から祖父に連れられて神奈川県の川崎大師へ元旦 に出かけた。目的は家内安全の札を買いに行くこと。札に名前を書いてもらって、護摩をたいたものを受け取って帰る。申し込んでから出来上がるまで時間があ るので、物売りの口上など聞きながら境内の出店を見て回る。祖父の分も代行するようになって、

賽銭を投げて合掌する時に、どんなに込んでいても一番前まで行く。昔の花柳界に伝わる縁起話で、(昔の人は着物を着ていたので)後ろから投げられた賽銭が自分の襟に入ると縁起がいい、とされていた。それを期待してだが、入った事は一度も無い。

夏 に浅草のほおずき市へ行くと、46,000日(しまんろくせんにち)法要というのがあって、この日にお参りすると、46,000日お参りしたのと同じこと になるという。約126年分を1日で済ませられる便利な日にあたる。ここも境内所狭しとほおずきを売る店が並んでいる。

年末には同じく浅草の鷲(おおとり)神社へ熊手を買いに行く。翌年の金銭運が高まるように竹制の熊手を買う。境内上から下から熊手だらけ、歩くのも一苦労だ。

そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)とイエス様が怒った時はこんな状態だったのだろう。

子 供の役目として、年末は神棚のすす払いがある。1年たった御札を神社に行って燃やし、新しい荒神さんの札を買ってくる。深夜には除夜の鐘を撞かせてくれる のでそこへも行く。希望者の列が長くなるので、いつも108つ以上たたいていた。翌朝は早起きして海岸へ初日の出を拝みに出かける。太陽にむかって手を合 わせる。太陽神信仰になるのだろうか?

大概毎年行くのだから、その効用は1年で切れるものなのだろう。皆それを更新に行くような気持ちで出かけているに違いない。行かなければ、身に降りかかる悪い事はすべて、行かなかった事のせいにするのだろう。行けば、満足。

寺へは回忌毎に親戚が集合する。曹洞宗の寺だ。幸い父が次男なので家に仏壇が無い。それに関わる事をしなくて済んだのは幸いだ。教育者だった祖父は死ぬ前に戒名を考えていた。居士は信士より格が上ということだが、そのランクも金次第。

ガラテヤ4章を見てみましょう。

4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

幸いクリスチャンになって、上に書いたような全てから解放された。全てが文化・習慣とか年寄りの知恵袋的な物であって、そこには信仰など微塵も無い。

12年前引越しの際に新しい家には神棚を作らなかったので、神棚の上にあったものは全て燃やしてきた。無ければ無いで何の問題もない。

家の中からそういうものが全てなくなった後、私はクリスチャンになった。

つづく

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