なりたい自分になれる力
テトス2章11〜14節
登戸エクレシアキリスト教会 ティム・ヒューバー
今日、私が選んだタイトルは「なりたい自分になれる力」です。
最近、アンビリーバブルというテレビ番組の中で、千葉のある教会の牧師となっている鈴木先生のお話しがありました。鈴木先生は元ヤクザで、でもイエス様と 出会って人生が変えられた方です。私達はヤクザでなくても、酷い過去がなくても、やっぱり心の中には嫌な部分がありますね。時々、否定的な気持ちに縛られ て人を許せなかったり、愛せなかったり、ねたんでしまうことがあります。否定的な気持ちや態度で人間が酷く縛られてしまいます。
間違った態度の中でも、特に高慢な思いがあります。高慢や自己中心やわがままや、いろいろな否定的な態度が私たちの心を縛ります。なかなか悪い思いが入っ て捨てられないですね。間違った汚い思いとか性的な思いとかを捨てようとするのだけれど、なかなか逃げられません。また、行動の中でも家庭の夫婦関係の中 で優しくしたいのにきつい言葉を言ってしまったりとか、そういうジレンマを私も皆も持っています。心の中にはどうしても葛藤があって悪の部分があります。
皆さんは聞いたことあるかどうかわかりませんが、私も何回か牢屋と刑務所に入れられた事があります。私の過去を聞いたことがありますか?ヤクザでは無かったのですが、もう少ししたら話します。私の過去を今日、みなさんに明らかにします(笑)。
テトスの手紙2章11〜14節
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、
私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
ここでもういちど11節を見て下さい。「というのは全ての人を救う神の恵みが現れた」、とありますね。神の恵みが現れて、そして12節に入ると不敬虔とか 世の中の欲とかを全部捨てて、この時代にあって慎み深く正しく敬虔に生活し、祝福された生活を待ち望み、とあります。どういうことを待ち望むのかと言え ば、イエス様が再び来るということを待ち望むように最後に教えさとしたからです、と書いてあります。11節の一番最後の言葉で、神様の恵みが、すべての人 を救う神の恵みが現れて、私達が不敬虔なこと、汚いことを全部捨てて神様のために敬虔に生きることが恵みによって教えられたと書いてありますね。神様の恵 みが現れて、その恵みによって私達が不敬虔な、汚い生き方を全部捨てて、本当に敬虔で素晴らしい新しい人生を神様のために生きるようになる、それは恵みに よって教えられたと書いてあります。
まず恵みは何であるかと言うと、今日のテーマは「なりたい自分になれる力」ですが、「なりたい自分になれる力」とは、どういう力によって私の心が本当に変 えられて私がイエス様のようになれるのか、どういう力によって私達が本当に変えられるかということです。それは愛の力ですね。
みなさん、アメリカの軍隊はとても強い軍隊です。アメリカの軍事力はすごく世界一の軍隊ですが、それでも、あの軍の力よりも愛の力の方が大きいです。どんな武器よりも水爆弾がいくつもあっても、その力よりも神様の恵み、神様の愛の力の方が大きいです。
いろいろな事を決心して私が頑張っていくのではなくて、私を本当に内側から変えられる力は神様の愛です。だから今の箇所にあったように全ての人を救う神様 の恵みが現れて、その恵みが現れたので私が不敬虔を捨てて神様の為に敬虔に生きるようになるのです。なぜかというと、私が頑張ってきたのではなくて、その 恵みが現れたので私がこの不敬虔を捨てて神様の為に生きるのです。
聖書にこう書いてあります。
エペソ人への手紙2章8節
あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出るのではなく神からの賜物です。
この賜物は何かというとプレゼントです、神様からのプレゼントです。だから自分が努力して一生懸命頑張って良い人間になろうとするのではなく、ただイエ ス・キリストの十字架を信じて、イエス様が罪を犯す代わりに一生敬虔に生活し、代わりに善を行い、代わりに素晴らしい人生を送って下さり、十字架の上で罪 を背負って、代わりに私の罪の為に罰せられて、3回目に甦ったという、そのことを信じれば救われる、と聖書は言っています。ですから、あなたがたは恵みの ゆえに信仰によって救われた、のです。もしイエス様を信じた場合は、信仰によってキリストの十字架、イエス様の事を信じたことによって救われたのです、恵 みのゆえに。
恵みについて簡単に説明したいのですが、恵みは私が努力するのでなくて、私はふさわしくないのに、私は罰せられて地獄へ行くべき人間なのに、神様が私を十 字架によって許して下さった、それが恵みですね。恵みは、ふさわしくないのに神様が私の為に行動をおこして祝福して下さること、神様の方から一方的に行動 を起こして祝福してくださること、私はふさわしくないのに。それが恵みです。だから神の恵みのゆえに信仰によって、キリストの十字架に対する信仰によっ て、あなたがたは救われたのです。
ちょっと簡単に説明したいのですが、
『信仰→救い→行い』
私は、いつもこのように説明します。聖書がいうのは、この信仰から救いが来るのですね。でも宗教の場合は、
『信仰+行い=救われるかもしれない』
さきほどのエペソの2章にあなたがたは恵みのゆえに救われたとあります。信仰によって、イエス様を信じて救われた、それは聖書の教えです。でも宗教は、一 生懸命何でも信じて、イエス様でも信じて、でもそれだけで足りなくてそれプラス一生懸命頑張れば救われるかもしれない、ということですね。
例えば最近、アメリカのテロ事件で注目されたイスラム教の信仰はこれです。一生懸命頑張れば救われる、でも本当に救われるのかどうか誰も知らない、ただ唯 一の救いの確信ある方法は、聖戦で死んだら救われるということです。聖戦というとイスラム教ではジハードです。ジハードで死ねば、それは絶対直接天に行け るというのがイスラム教の教えです。
問題は何が聖戦になるかということですが、最近のアメリカのテロ事件、あれが聖戦だというのです。ハリウッド映画やアメリカの音楽を通して全世界へ色々な 不道徳的な考え方が広がっている、だからアメリカを倒すべき、聖なる戦争を起こしてアメリカを倒そう、という考えなのです。それで貿易センターのタワーに ぶつかって自分を殺してしまったのです。なぜかというと、悪と戦って自分が死んでも直接天国へ行けると彼らが本気で信じているからです。イスラム教徒が一 生懸命頑張れば、そして良いことをすれば、もしかするとこの行いによって救われる。ということは基本的に宗教の動機付けは恐れですね。もう少し頑張らなけ れば地獄に堕ちるかもしれない、もう少し頑張らなければ罰があたるかもしれない、壺を買わないと罰が当たる、何かしないと駄目だ、何かしないと罰が当た る、など。恐れが動機付けで、もう少し善を行って施さないと私は救われないかもしれない、その恐れで、頑張ろう、頑張ろう、頑張ろう、という考えですね。
だけれど聖書の教えは逆です。私はいくら頑張っても救われない。私は絶対駄目です、罪深い心、本当に悪い態度がある。しかし、代わりにイエス様が十字架に 付けられて死んで下さったので、私が心を開いてイエス様を受け入れるだけで、何もしないでお金も一銭も払わないで、許されて永遠の命までも無料で頂ける。 それは恵みです。聖書の教えは、信仰によって救われるのです。あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われた、そして続けてこう書いてあります。「それは あなたがたから出たことでなく神からの賜物です」。賜物というとプレゼントです。
続けて9節にはこう書いてあります、「行いによるのではありません、誰も誇ることのないためです」。もし、信仰+行い=救いだったら、私が一生懸命頑張っ たら「ティムあなたは救われていると思いますか?」と聞かれたら、「うん、わからないけれど救われていると思います」「何故救われていると思いますか?」 「毎日教会に行って毎週献金して一生懸命、いいことをやろうとして電車の中でお年寄りの為に席を譲って、とにかく一生懸命頑張ってきたのだから、私が救わ れるべきだと思います」という考えですね。でもそうすると自分を誇ることになります。私がいい人間だから、私が頑張ってきたのだから救われるべきだ、と考 えてしまいます。行いによって救いがあるなら、簡単に人を見下して、私がここまで頑張っていい人間になったのだからもう少し頑張ってほしいとか、人を裁い た目で見たり、見下してしまう傾向があります。でも聖書は、「行いによるのではありません、誰も誇ることがないためです」、と言っています。
10節にはこう書いてあります。
あなたがたはイエスキリストにあって良い行いをするために神につくられた。
良い行いをするために神につくられたと書いてあります。この行いは救いの結果となるのです。救われて、神の愛によって行いが出るのです、おもしろい事ですね。
ただ順番が変わると全ては変わります。信仰+行い=救いとなると動機は恐れになり、簡単に高慢になって人を見下して自分がいい人間だと思ってしまいがちで す。でも聖書がいうのは宗教の考え方ではなく、『信仰→救い→行い』です。聖書が言うのは信仰によって救われたのです。救われてから良い行いが出るので す。この良い行いが出ることは、私がこんなに愛されているから神様に仕えていきたいということですね。
だから、一生懸命いい人間になろうと自分の救いの為にしているのではなくて、こんなに無料で愛されて救われたので、この愛を少しでも神様に返したいという 愛の動機で良いことを行うのです。何か神様から得ようとするのではなくて、こんなに全て得られて全て祝福されているので良い人間になりたい、と思うので す。
テトス2章をもう一度みて下さい。「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ」、その神の恵みが現れたので、私は不敬虔を捨てて敬虔な生き方を歩むようになります。
ここで、私が前に話した牢屋や刑務所に入れられた時の過去を話したいのですが、本当は、この過去は未発表ではありません。前にも話したことがあります。私 が大人になってもう一度ブラジルに帰って5年間半アマゾンの地域で宣教師として働いたその時に入れられたのです。なぜ牢屋と刑務所に入れられたのかという と、毎週土曜日にその牢屋に入って聖書の勉強会を開いたのです。
でも本当に中に入れられたんですよ、大きな刑務所の鉄のドアが開かれて私はその中に犯罪人と一緒に入れられて、そしてもう一度カギが閉められてその中に入 れられたのです。コンクリートの床の上で輪をつくってみんなと座りました。すごく素朴な牢屋でした。日本のような贅沢な牢屋ではありませんでした。みんな 犯罪やいろいろな酷い過去をもっていたので、彼らがイエス様の愛によってどういう風に人生が本当に変えられるかということをもう少し良く理解してもらうた めに何人かを一緒に連れて行きました。彼らがイエス様の愛によってどのように変えられたかということを話してもらったのです。
その中の一人に、ジョルジーヌという人がいたのですが、このジョルジーヌは、もう一人の犯罪人のバルトの友達でした。私は何回か彼を連れて行きました。そ のジョルジーヌもいっぱい犯罪を起こして麻薬中毒者でいろんな事をやってきたのですが、イエス様を信じて人生がすごく変えられました。バルタはジョルジー ヌの人生がすごく変わったと人から聞いていましたが、彼がイエス様を受け入れてからはまだ会ったことがありませんでした。噂話でジョルジーヌがすごく変え られたと聞いていたのです。
その日は、私達が勉強会を開いてジョルジーヌも自分の人生がどういう風に変えられたかということをみんなの前で話しました。その後、私はちょっと早めに車 に戻り、後でジョルジーヌと友達が牢屋から出てきたのですが、牢屋から出ようとしたときにバルタが二人の警官に連れて来られてまた牢屋にちょうど入るとこ ろでした。このバルタに後で、何回入れられたのかと聞いたら30回以上と言っていました。もう本当にすごい暴力的な人だったんです。
わたしもジョルジーヌからバルタの話しをいろいろと聞いて、もう動物の存在くらいだろうと思っていました。酷い話しばかり聞いて、ある時は怒りまくって車 の屋根を全部メチャメチャにしたとか、警察が彼をつかもうとしたときに警察にも暴力ふるおうとしたとか、いろんな酷いことをしたんです。ある時、サンタ レーンという私の住んでいた人口20万人の町の新聞にこういう記事が出たことがありました。"悪魔にとりつかれた麻薬中毒者"それはバルタの話しでした。 その記事の中には、バルタがどんなに酷いことをやって街の迷惑になっているのかが書いてありました。このバルタが二人の警官に連れて来られて、また牢屋に 入れられたのです。わたしは後でジョルジーヌと友達が帰ってきたときに聞いたのですが、バルタが二人の警官に連れて来られた時、ジョルジーヌが聖書を手に しているのを見てバルタは泣きだしたそうです。
「私はこんなにまだ惨めな人生を送っているのにジョルジーヌはすっかり変えられた」と自分の惨めさのうえで泣き出したそうです。次の土曜日、私はもう一度 牢屋に行き、やっとバルタと話せると思ったのですが、行ったらバルタはすでに自由になっていました。でも勉強会をやった後に、ジョルジーヌはバルタの家を 知っていたのでバルタの家へ連れて行ってくれました。
私は初めてバルタと会ったのですが、全然想像と違うかなり優しそうな人でした。彼と話しました。イエス様と出会ったらイエス様の愛を体験してあなたの人生 も変えられるよ、あなたも本当に新しい人生を持てるよ、今までのように何回もいろんな喧嘩をしたり、酷いことをしてきたことが全部変えられるよ、イエス様 の愛があなたを変えるよ、ということをお話しました。そしてバルタが教会へ来るようになったんです。そしてイエス様を信じて受け入れたのです。バルタから 見せて貰ったのですが、彼は2回もピストルの弾に打たれました。1回はちょうど首のところに弾が入って本当に死ななかったのはただ神様の奇跡だったのです が、首を通って背中の所へきていました。彼がわたしと会った時はまだ弾があったんですよ。医者が取らない方が良いと言ったんですが、彼が屈んだらトンと出 たんです。でもう一つのピストルの弾は胃の中に入って酷い手術をして、もう腸はメチャクチャになってしまいました。その手術をしている最中に知らせがき て、彼のお母さんが死んでしまったということを彼は手術が終って意識が戻った時に聞いたんですが、物すごく悲しくて手術したところを破ってでも死にたかっ た、と言いました。彼は本当は町の有名な弁護士の息子だったんですが、そのお父さんが自分の奥さん以外との間につくった子供でした。お父さんが一応自分が 父親だと認めてお金を援助したんだけれど、でもやっぱり家庭の愛とかが無く一緒に暮らさなかったので、本当に自分を愛してくれました。お母さんが死んでし まったことによってますます社会に対する怒りが燃えたのです。
ですが、イエス様を信じて、「真っ暗な部屋に明かりがついた」ように人生が本当に見事に変わりました。ただ、最初バルタは当時16歳の女の子と付き合って いたのです。バルタも22か23歳でした。彼女は以前14歳の時に別の男性との間に子供を産んで、その子をお母さんに預けて私の町に来てバルタと付き合う ようになったのです。その女性はまだ16歳で本当に子供でした。でもバルタ自身がすごく変えられていました。彼は彼女と一緒に同棲していたので、結婚すべ きだと思って彼女をすぐに変えようと思ったのですが、彼女はすぐに彼のようにイエス様を信じて変えられなかったのですごくイライラして、「もうすぐに変え られてほしい、私が新しい人生を始めたいのにどうして邪魔をするんだ」という気持ちになったんですね。イライラして、ちょっと危険な状態だということが分 かりました。
そして、ある夜はわたしの一生の中で一番恐い夜となりました。彼女がバルタといろいろな問題があると知っていたので、祈り会のあと夜中の12時すぎにバル タが彼女のアパートに居るところに訪ねていきました。林の中にあるボロボロの木の家で、外から見ても家の中が見えました。彼女は一つの部屋に住んでいてハ ンモックに寝ていたのですが、わたしが入ったらすごい冷たーい堅い雰囲気で、喧嘩の真っ最中でした。
わたしが「どんな具合ですか?」と言ったらバルタが説明して、彼女が自分を弁明しようとしたら彼の怒りが爆発しました。ずっとそのテンションだったから怒 りが爆発したんですね。古いバルタが戻ってきました。目が変わって本当に動物のような目になっていました(わたしは今までそうゆう恐い目を見たことがあり ませんでした)。彼が台所からナイフを取ってきて「殺すぞー、殺すぞー」と言って彼女に向けました。わたしは彼女をかばおうと思って「バルタやめなさい」 とか「悪霊出ていけ!」とかいろいろなことをしたけれど駄目で、彼女と彼の間に立っていたのですが、バルタはナイフを私のお腹にさして「殺すぞー、殺す ぞー」と彼女に向かって言っています。彼女は「あ゛―!」と言い、わたしは「バルタやめなさい静かにしなさい、イエス様の御名によって静かにしなさい」と かいろんな事をやったりして話して納得させようとしたのですが「殺すぞー、殺すぞー」と言っています。この話しを一回、私が日本に来たばかりの時に日本語 の授業でクラスメイトに話しをしたのですが、そのとき日本語の先生はこのように言いました。「でも彼女も恐かったでしょうね、ティムは細いから刺したら 通っていたでしょう」。でも本当に恐かったです。
バルタは「殺すぞー、殺すぞー」と言って、わたしは守って守って走り回って、そして後で彼がちょっと部屋を出たときにわたしは鍵をかけました。真夜中で 12時半、1時位で回りに家もあるのに彼が外から「開けろ、開けないともっと酷いことになるぞ!」と叫びました。わたしは「バルタ静かにしなさい、近所の 人全部を起こすから」と言いました。でも彼は「開けろ、開けないともっと酷いことになるぞ!」と叫び続けました。
わたしが穴だらけのドアから見ると、彼がちょうど木の幹をもってドアを叩き落とそうとしていたのです。そこで仕方ないと思ってドアを開けましたが、彼の怒 りが突然やんで3人とも下に崩れ落ちました。もうあの時はどうしようと思ったんですが、彼女は本当にイエス様に従いたくなかったので彼と別れました。
でもバルタはどんどんイエス様を求め続けて、イエス様の愛と出逢って本当にイエス様の愛によって変えられていきました。そして彼はどんどん本当に町の模範 的な青年となって学校に復帰して、そして働きながら勉強してクラスのリーダーとなり、数年後にバイブルスクールへ行って、町の牧師となりました。現在、彼 はサンノヘの町で多分三番目くらいに大きな教会の牧師となって、1,000人以上の人が毎週彼の教会へ通っています。今までは悪魔に取り付かれた麻薬中毒 者という記事が書かれてすごい社会の迷惑になった人だったのに、イエス様の愛を体験したので、十字架の愛を本当に分って体験したら心が完全に変えられて、 今まですごい迷惑だったのにこういう迷惑な人間が今は多くの人間にイエス様の恵みを施せるようになっています。素晴らしいですね。
わたしは去年の夏もう一回サンノヘに行ったんですが、クリスティーンとバルタの教会に行って来ました。毎回そこへ行くとすごく感動するのですが、イエス様 がどれほど素晴らしい御方かといつも思うのです。バルタは人生がメチャクチャな人だったのに、このイエス様の愛と力によってこんなに変えられたというのを 見て。そしてその日は彼のセルグループのコイノニヤのリーダー達の訓練の日だったのですが(コイノニヤリーダーだけで200人いたと思うのですが)、わた しは話している時も感動して泣いてしまいました。それは愛の力です。キリストの十字架の愛の力です。私達の人生をまるっきり変えられるのは軍の力ではなく て政府でなく教育でなくて、人間の心を本当に変えられるのは恵みです、神の愛です。この神の愛、神の恵みによってこんなに変えられて感動させられて、こん なに汚い私が許されて愛されて、だから私も少しでも神様の役にたちたい、人々の役に立ちたい、少しでも神と人々に愛を配っていきたい、という風に変えられ て人生が180度変えられるのです。これは人間の力でも、宗教の力でもありません。
宗教はただ頑張って頑張って修業して、だんだん高慢になってしまうだけです。これは私は出来ないとへりくだって、イエス様ありがとう、代わりに死んで下 さって代わりに私の罪を背負って代わりに罰せられたことを感謝します、こんなに汚い私があなたによって許されて新しい人生が与えられているので、これから 一生あなたに従っていきたい、あなたのために生きていきたい。そうするとここに書いてある聖い生き方が、この敬虔な生き方が苦労ではなくなります。
愛しているから、どうしても少しでも愛を返したい。だから、こういうふうに生きられる特権を感謝します。あなたのために人々にちょっとでも役に立てること あれば、こんなに汚い自分が役に立てることを本当に感謝します。あなたの恵みだけです。あなたの愛だけです、という生涯を送れるようになります。これは恵 み、愛の力です。今日の箇所は、全ての人を救う神の愛です。